大切なことは20歳の自分が教えてくれた

株式会社 一家ダイニングプロジェクト

代表取締役社長 / 武長 太郎

おもてなしを武器に躍進を続ける「一家ダイニングプロジェクト」。同社のチャレンジスピリットを体現するリーダーこそ、代表の武長太郎氏である。1997年、20歳の若さで居酒屋をオープン。拡大と迷走を経て、飲食事業を再び成長軌道へ乗せた。2012年には、社運をかけたブライダル事業に挑戦。その軌跡をたどりながら、経営者の素顔にせまる。

PROFILE

代表プロフィール

1977年、千葉県生まれ。中央大学法学部中退。1997年、有限会社ロイスカンパニー(現:株式会社一家ダイニングプロジェクト)を設立し、千葉県市川市に和風ダイニング居酒屋をオープン。2007年、古民家を改築した一軒家型の「こだわりもん一家」を千葉県成田市にオープン。同店の成功を機に「こだわりもん一家」「屋台屋 博多劇場」などの出店を加速させる。2012年、ブライダル施設「The Place of TOKYO」をオープン。自ら陣頭指揮をとり、新規事業を成功に導く。2017年、東証マザーズに上場。「日本一のおもてなし集団」をグループミッションに掲げ、人を根幹としたビジネスを展開している。

18歳の決意。旅路の小さなバーで夢を見つける

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―武長さんは20歳のときに居酒屋をオープンしています。なぜ、若くして起業したのですか?


縁に恵まれたからです。もともと母が本八幡(千葉県市川市)でクラブを経営していたので、小さな頃から飲食業に親しみがありました。起業を意識したのは、大学1年生の夏。やりたいことを探すため、ひとり旅へ出たんです。母の車を借りて、5万円のガソリン代を握りしめて。


西日本を横断し、熊本あたりでお金がつきたので、現地でアルバイトを始めました。その先輩に連れて行ってもらったのが、地元の小さなバーでした。そこはアットホームで温かな空間。マスターとお客さんの楽しそうな姿を見て、「僕もこんなお店をつくりたい!」と決意しましたね。


―当時は18歳ですよね。


ええ。帰宅して、すぐに大学を中退。地元のホテルに就職し、毎月10万円ずつ開業資金を貯めました。すると20歳のとき、チャンスがめぐってきまして。母の知人から、お店(クラブ)を譲ってもらえることになったんです。ただ、開業資金が足りません。母の連帯保証で銀行から借り入れ、3ヵ月後のオープンに向けて準備をしました。ひたすら魅力的な女性を集めることだけに集中しましたよ。繁盛店をつくる要素は、いつの時代も「人」でしかないと思っていたので。

20歳の起業。先輩社長に評価され、好立地の物件を借り受ける

―最初は居酒屋ではなく、クラブを経営したんですね。


ええ。オープンまでに目標以上の女性たちを集めることができ、お店は噂が噂を呼んで連日大繁盛。オープンから3ヵ月足らずで初期投資を全額回収できました。すると、またチャンスが巡ってきて。本八幡で複数の飲食店を展開していた豪腕社長が噂を聞きつけ、「北口で最高の立地の物件を借りないか」と誘ってきたのです。


そのときは即答を避けましたが、考えれば考えるほど「やってみたい!」と思うようになり、新たなチャレンジを決意しました。最後は母の後押しもあって、1997年10月に当社を設立、20歳で社長になったのです 。


そして、多くの方に支援してもらい、同年12月12日に「くいどころバー 一家(現:こだわりもん一家)」を本八幡にオープン。「第2の我が家」というコンセプトが評価され、半年後には地元でいちばんの繁盛店になりました。

5年目の危機。窮余の策も失敗し、次々と社員が離職

―創業5年目に経営危機が訪れたそうですね。


すべて僕のせいでした。当時は25歳で年商5億円。起業から順風満帆で、経営なんて簡単だと過信していたんです。そんなとき、全5店舗の売上が2割以上も下がって。ちょうど日韓ワールドカップの時期だったので、楽観していました。大会が終わったら、売上が戻るだろうって。でも、実際は戻らなかった。毎月のように売上が落ち、会社が傾いていきました。


―なにが原因だったんですか?


僕が現場から離れ、机上でマニュアル化を進めたからでしょう。もともと「お客さんを楽しませたい、喜ばせたい」という想いでお店を始めたのに、その原点を忘れてしまった。おもてなしの精神を失ってしまったのです。


資金繰りに困って打った施策も、すべて裏目に出ました。特に営業時間の延長と労務費の削減が失敗で。仲間が次々と辞めていき、社員も自分自身も信じられなくなってしまいました。なぜ、素人が20歳で起業したのか? 商売なんてやらなきゃよかった…。そう後悔するようになりましたね。

新卒1期生のひたむきな姿に、あの頃の自分を重ねて

―どうやって、そんな悪循環から抜け出したのでしょう?


ある日、ふたりの新卒1期生が働く店をのぞきに行ったんですよ。彼らは文句も言わず、ひたむきに働いて、お客さんを楽しませようとしていた。その姿が20歳の頃の自分に重なったんです。


あの頃の僕は、知識も経験もノウハウもないのに大繁盛店をつくることができた。だったら、彼らにもできるはず。社員が現場で輝くようにサポートするのが、経営者の仕事だと気づきました。そこからはトップダウンのマニュアルを撤廃し、創業の原点に戻りましたね。


だけど、すぐに業績が回復したわけではありません。そこから3~4年は試行錯誤が続きました。潰れなかったのは、銀行から追加融資を受けられたおかげ。ラーメン店、そば居酒屋、スペインバル…どんどん新業態を増やしたものの、手ごたえは得られませんでした。その時期は迷走していましたね。

10年目の昇華。集大成となる‟新生一家”が大繁盛

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―業績回復のきっかけを教えてください。


数字に出てきたのは、創業10年目の2007年です。「こだわりもん一家」5店舗が息を吹き返してきて。僕の考え方が変わり、社員が笑顔と活気を取り戻し、お客さんに楽しんでもらえるようになったのでしょう。


また、同時期に富士登山を決行。アルバイトを含む全従業員が山頂をめざし、絆を深めました。その帰り道に、次の新店について構想したんです。もう一度、魂をこめた「一家」業態で勝負しようと。


そして、10年間の集大成となる‟新生こだわりもん一家”を成田にオープン。それまで学んできたことに、10年前から続くコンセプト、原点にある気持ちを融合させました。そこが爆発的にアタりましたね。その後は多角化した業態を整理し、利益を福利厚生や社員教育に惜しみなく投資。だんだん組織が強くなり、右肩上がりの安定成長が続きました。


いま振り返ると、苦しかった時期は宝物です。二度と同じ思いをしたくないからこそ、自分への戒めになる。もし5年目にピンチが来なかったら、もっと後で会社をおかしくしていたと思います。

15年目の挑戦。社運をかけて、ブライダル事業へ参入

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―その後、2012年にブライダル事業へ参入しています。大胆な事業展開に迷いはありませんでしたか?


メチャクチャありましたよ。いまの施設を紹介された当初は、お断りしたくらいです。だって、敷地面積は1,000坪。東京タワーに近く、家賃もケタ違いでしたから。また、当時の飲食事業と比較すると、ブライダルの事業規模は倍以上になる。ど素人が挑戦して、うまくいくわけがありません。


でも先方から「直前で断ってもかまわない。いつかブライダル事業をやるなら、参考になるよ」と誘われて…。たしかに、話を進めるほど勉強になります。その頃にウチの幹部が次々と結婚したこともあり、ブライダル事業に惹かれていました。こんなに喜びや感動の大きいビジネスはないと。


だけど、開業資金だけで数億円が必要です。もし失敗したら、社員を路頭に迷わせてしまう。「やりたい」という気持ちだけじゃダメだ…。先方への返答期日ギリギリまで、シーソーのように心が揺れ動いていました。


―なぜ、挑戦を決意したのでしょう?


返答期日の前夜、ひとりで施設へ行ったんです。そこから東京タワーを見上げると、ライトアップされた鉄塔が真っ赤な炎のように見えてきて…。10分くらい眺めているうちに、気持ちも燃え上がってきました。


僕は20歳のとき、知識も経験もノウハウもないのにお店を始めました。あれから15年たって、当時の情熱に負けていないだろうか? 「夢を持ち、限りなき挑戦をしていく」という経営理念も、自分自身でつくったもの。社長が夢をもって挑戦する姿を社員に見てもらいたい! そんな気持ちになって決意しました。
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業界の常識を破った「高回転」「リピート」型の式場

―でも、気持ちだけでビジネスはうまくいきません。新規事業を成功させた方法を教えてください。


まずは競合調査です。『ゼクシィ』を購入し、あらゆる式場にかたっぱしから電話しました。毎週末、嫁と子どもを連れて、計30ヵ所くらい式場をまわりましたよ。やっぱり、顧客視点が大事。成約直前まで営業を受けて、会場や接客をチェックしました。起業前も都内の繁盛店を何十軒とまわりましたから。


そうやって、式場をまわっているうちに疑問がわいてきました。なぜ結婚式はこんなに高いのだろう? ローンを組ませて、打ち上げ花火のような式をあげる施設はつくりたくない。そこで回転率を高め、コストパフォーマンスの高いモデルを構築しました。これは居酒屋的な発想です。


また、ブライダル業界には「リピート」という発想がありませんが、結婚1周年を迎えるご夫婦にディナーチケットを送り、併設するレストランへ帰ってきていただいています。さらに‟思い出の場所”として、式場をブランディング。お子様が生まれたご家族が楽しめるワークショップなどを定期的に行い、ご家族で楽しめるイベントを開催しています。

20年目の上場。あらゆる矛盾を乗り越え、次のステージへ

―昨年、一家ダイニングプロジェクトはIPOを果たしています。株式上場までの苦労はありましたか?


もう苦労だらけですよ。いちばんは労務面。長時間労働を是正したぶん、どんどん人件費がかさんで。また、成長性がなければ上場できません。だからといって、出店ペースを加速すると人が足りなくなる。当然、利益も出さなきゃいけない。あらゆる矛盾が生じるなか、改革・改善を重ねて業績を上げていきました。


社員からは「なぜ、こんな面倒なことをやるのか?」という不満も出ました。でも、グループミッションである「日本一のおもてなし集団」をめざすなら、上場は必要不可欠。単なるスローガンではなく、自他ともに認められる存在にならなければいけません。「次の夢に挑戦するためのステージだ!」と社員を鼓舞し、なんとか予定通りに上場しました。


―東証マザーズへの上場日は、開業20周年の2017年12月12日ですね。


主幹事となる証券会社には、最初から日付指定でお願いしました。そして上場当日は、本八幡の1号店でパーティーを開催。当社のメンバーをはじめ、証券会社、監査法人、コンサルティング会社の方々など、50名近くの上場関係者に集まってもらいました。


僕は‟初代店長”として、ユニフォーム姿に。のれんをかけて、看板の電気をつけて、改めて20年前の気持ちに戻りました。「ここからスタートするんだ」って。いざパーティーが始まると、みなさんに飲まされて、すぐに使い物にならなくなりましたけど(笑)。
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‟おもてなし業”として、人が主役のビジネスを展開したい

―武長さんの歩みを聞いていると、いつも大事な場面で「20歳の自分」が現れていますよね。では最後に、今後のビジョンを聞かせてください。


まずは既存事業を伸ばして、東証一部上場を目指します。そして、「日本を代表するおもてなしのリーディングカンパニー」になり、2020年に世界中の人々を迎えたい。その後は「おもてなし」に関わるさまざまなビジネスに挑戦していきたいです。


このままAIやロボットが進化すると、飲食業は変わっていくでしょう。空腹を満たしてもらうだけなら、人はいらないかもしれません。でも、僕たちは‟おもてなし業”。人に喜んでもらったり、楽しんでもらったり、元気になってもらったりするのが仕事です。これからも「おもてなし」を強みにして、働く人が主役となるビジネスを展開していきます。

Leaders ITEM

『20歳で起業した僕の会社がやっと20歳になりました』...

『20歳で起業した僕の会社がやっと20歳になりました』(幻冬舎)

武長氏の想いが詰まった自叙伝。幼少期のエピソードから2017年の株式上場まで、波瀾万丈の半生が克明な筆致でつづられている。
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BUSINESS

事業内容

〇多業種飲食店の経営
◯ブライダル事業

COMPANY

会社情報

所在地:千葉県市川市八幡2-5-6 糸信ビル3F(千葉本社)
設立:1997年10月
代表者:代表取締役社長 武長 太郎
従業員数:220名(2018年3月31日現在)/パート・アルバイト800名
資本金:3億6,499万円(2018年3月31日現在)