
壮絶な失敗体験も、乗り越えれば自信につながる
KLab株式会社
取締役会長 / 真田 哲弥
モバイルオンラインゲームの開発・配信などを行うKLab(クラブ)株式会社の代表取締役会長兼社長、真田哲弥氏の起業家としての人生は、まさに波瀾万丈だった。学生ベンチャー界隈で名を馳せたものの、20代で創業した会社は倒産の憂き目に遭い、数々の修羅場も経験した。それでも夢をあきらめず挑戦したKLab株式会社では、ついに東証一部上場を果たす。何度倒れても起き上がり、大きな成功を掴んだ原動力はどこにあったのか?
PROFILE
代表プロフィール
1964年、大阪府生まれ。大学在学中にさまざまな企画やビジネスを手がけ、19歳で起業。その後24歳で2度目の起業、急成長を遂げるも、事実上の倒産という成功と挫折を経験。1997年に株式会社アクセス(現:株式会社ACCESS)に入社。33歳で初のサラリーマンを経験し、インターネット技術を学ぶ。1998年に堀主知ロバート氏らとともに株式会社サイバードを設立し、取締役副社長兼CTOに就任。2000年、ジャスダックへ上場。同年に株式会社ケイ・ラボラトリー(現:KLab株式会社)を設立し、代表取締役会長兼社長CEOに就任。モバイルゲームへの事業転換に成功し、2011年に東証マザーズに上場。翌年、東証1部へ。数々のヒットゲームタイトルを生み出す。
真田幸村と坂本龍馬に憧れた子ども時代
―小学生の頃から型破りな子どもだったそうですね。
いっぱいエピソードがありますよ(笑)。たとえば、小学校4年生のときには授業をボイコットしたことがあります。先生が授業で間違ったことを教えたので、「それは間違っている」と言ったんです。そうしたら先生も「こっちが正しい」と譲らないので、「それならオレが正しい授業をするから、みんなで校庭に行こう!」とクラスのみんなを誘いました。ほとんどのクラスメートがついてきて、2日間校庭で授業をしましたよ。
―単にやんちゃだっただけではなく、自分なりの主義主張がある子どもだったと。
僕の人格に大きな影響を与えたものは2つあります。ひとつは、NHKで観た真田十勇士の人形劇です。真田幸村を中心とした10人のスペシャリストたちが、何万人もの徳川家康軍に関ヶ原で立ち向かっていく。歴史的史実はさておき、その姿が子ども心に強く印象に残りました。僕も姓が“真田”ですから、自分もこういう人になりたいと思いました。神出鬼没のベンチャー企業で、大企業と対峙していくという自分の生き方は、この頃から決まっていたと思います。
もうひとつは、司馬遼太郎さんの歴史小説です。ほぼ全部の本を読み込んで、特に『竜馬がゆく』は暗記するくらい何度も読み返しました。中学生の頃には、坂本龍馬のように反体制側から国を変える人になりたいと考えていましたね。
―大組織を上り詰めた人よりも、自分で組織を作り、大きなものに立ち向かっていった人に憧れがあるんですね。
そうですね。しかも人を束ねるリーダーというか。自分の城を作っていくという生き方ですよ(笑)。子どもの頃から今も。
―学校の成績は良かったですか?
小学生までは良かったんですけど、中高一貫の真面目な進学校に通い始めてからは悲惨なものでした。サッカーとバンドに熱中して、まったく勉強しませんでしたからね(笑)。大学受験では浪人して、関西学院大学の経済学部に入学しました。ただ、当時はディスコブームの絶頂期でしたから、そこでも勉強はせずにイベントサークルの活動にのめり込みました(笑)。でも、このときにビジネスの楽しさに気が付いたんですね。
企業から協賛を集めてイベントを仕掛ける一方で、いろんな学生向けビジネスも仕掛けました。そこでやったことのひとつが、運転免許試験所に免許取得を目指す学生を集客するビジネスです。この事業はあっという間に業績を伸ばして、1987年に僕が代表取締役を務める株式会社リョーマとして法人化しました。23歳のときです。
いっぱいエピソードがありますよ(笑)。たとえば、小学校4年生のときには授業をボイコットしたことがあります。先生が授業で間違ったことを教えたので、「それは間違っている」と言ったんです。そうしたら先生も「こっちが正しい」と譲らないので、「それならオレが正しい授業をするから、みんなで校庭に行こう!」とクラスのみんなを誘いました。ほとんどのクラスメートがついてきて、2日間校庭で授業をしましたよ。
―単にやんちゃだっただけではなく、自分なりの主義主張がある子どもだったと。
僕の人格に大きな影響を与えたものは2つあります。ひとつは、NHKで観た真田十勇士の人形劇です。真田幸村を中心とした10人のスペシャリストたちが、何万人もの徳川家康軍に関ヶ原で立ち向かっていく。歴史的史実はさておき、その姿が子ども心に強く印象に残りました。僕も姓が“真田”ですから、自分もこういう人になりたいと思いました。神出鬼没のベンチャー企業で、大企業と対峙していくという自分の生き方は、この頃から決まっていたと思います。
もうひとつは、司馬遼太郎さんの歴史小説です。ほぼ全部の本を読み込んで、特に『竜馬がゆく』は暗記するくらい何度も読み返しました。中学生の頃には、坂本龍馬のように反体制側から国を変える人になりたいと考えていましたね。
―大組織を上り詰めた人よりも、自分で組織を作り、大きなものに立ち向かっていった人に憧れがあるんですね。
そうですね。しかも人を束ねるリーダーというか。自分の城を作っていくという生き方ですよ(笑)。子どもの頃から今も。
―学校の成績は良かったですか?
小学生までは良かったんですけど、中高一貫の真面目な進学校に通い始めてからは悲惨なものでした。サッカーとバンドに熱中して、まったく勉強しませんでしたからね(笑)。大学受験では浪人して、関西学院大学の経済学部に入学しました。ただ、当時はディスコブームの絶頂期でしたから、そこでも勉強はせずにイベントサークルの活動にのめり込みました(笑)。でも、このときにビジネスの楽しさに気が付いたんですね。
企業から協賛を集めてイベントを仕掛ける一方で、いろんな学生向けビジネスも仕掛けました。そこでやったことのひとつが、運転免許試験所に免許取得を目指す学生を集客するビジネスです。この事業はあっという間に業績を伸ばして、1987年に僕が代表取締役を務める株式会社リョーマとして法人化しました。23歳のときです。
上京して事業を成功させるも、落とし穴が
―学生起業家の先駆けですね。しかし、真田さんはその会社をわずか2年ほどで辞任します。
直接のきっかけになったのは、一緒にやっていたメンバーから「独立したい」と言われたことです。ただ、僕は僕でこのビジネスではどれだけ頑張っても大企業にはなれないことがわかってきていたので、次の何かを探すつもりでいました。だから独立の相談をされたときに、自分が身を引いて、あとは仲間に任せようと思ったのです。
―新規事業のアイデアはあったんですか?
いくつか考えてはみたんですが、「これだ」というものが見つからなかったんですよね。特に当時は学生起業家みたいな人も少ない。これは環境を変えたほうがいいんじゃないかと考えて、イベントサークルのつながりを頼って上京することにしました。
今井祥雅さん(現・株式会社マインドシェア代表取締役)という僕の師匠のような方が「三田クラブ」という社会人サークルを立ち上げていて、そこに潜り込んだんです。後にリクルートの社長になる峰岸真澄さんやUSENの社長になる宇野康秀さんといった人たちが参加していて、毎日のように新規事業について語り合いました。
―そこから真田さんは2度目の起業となる「ダイヤル・キュー・ネットワーク」を1989年に立ち上げます。「ダイヤルQ2」(番組提供者が電話回線を利用して情報を発信し、ユーザーはその回線にダイヤルすることで音声情報を得ることができるサービス)を活用したコンテンツ事業を行う会社ですが、この新しいサービスのどこに可能性を感じたのでしょう?
今では誰でもインターネットを使った情報発信ができますが、当時はメディアといえば放送と出版しかない時代です。でも、ダイヤルQ2を使えば、ユーザーに直接情報を届ける第3メディアを作ることができると思いました。僕らはそこで、企業とユーザーがつながるためのプラットフォームになる。ここに大きな可能性を感じたのです。後のポータルサイトやSNSに近い発想のビジネスモデルです。
出版社やレコード会社、映画会社など、多くの企業が僕らのサービスに参加してくれました。売り上げは倍々ゲームで伸びていき、年商は40億円に達していたと思います。しかし、そのすぐ先に落とし穴が待っていたんですよね。
―ダイヤルQ2はアダルト番組による高額請求が社会問題化しましたが、そういったことが関係したのでしょうか?
いや、僕らはアダルトコンテンツを一切手がけていなかったので、そこは関係ないんですよ。想定外だったのは、偽造テレホンカードによる詐欺事件が横行したことです。公衆電話で偽造テレホンカードを使い、自社の提供番組に電話をかけることでNTTから料金をだまし取る事件が爆発的に増えたことで、ダイヤルQ2は公衆電話からのアクセスを禁止することになります。
しかし、僕らは緊急情報も手がけていたこともあって、公衆電話からのアクセスが売り上げの4割ほどを占めていました。それだけの売り上げが一気になくなったんです。多額のインフラ投資をしていたこともあり、あっとう間に資金繰りが火の車となって経営破綻に至りました。その結果、僕は28歳で十数億円の借金を背負うことになりました。
直接のきっかけになったのは、一緒にやっていたメンバーから「独立したい」と言われたことです。ただ、僕は僕でこのビジネスではどれだけ頑張っても大企業にはなれないことがわかってきていたので、次の何かを探すつもりでいました。だから独立の相談をされたときに、自分が身を引いて、あとは仲間に任せようと思ったのです。
―新規事業のアイデアはあったんですか?
いくつか考えてはみたんですが、「これだ」というものが見つからなかったんですよね。特に当時は学生起業家みたいな人も少ない。これは環境を変えたほうがいいんじゃないかと考えて、イベントサークルのつながりを頼って上京することにしました。
今井祥雅さん(現・株式会社マインドシェア代表取締役)という僕の師匠のような方が「三田クラブ」という社会人サークルを立ち上げていて、そこに潜り込んだんです。後にリクルートの社長になる峰岸真澄さんやUSENの社長になる宇野康秀さんといった人たちが参加していて、毎日のように新規事業について語り合いました。
―そこから真田さんは2度目の起業となる「ダイヤル・キュー・ネットワーク」を1989年に立ち上げます。「ダイヤルQ2」(番組提供者が電話回線を利用して情報を発信し、ユーザーはその回線にダイヤルすることで音声情報を得ることができるサービス)を活用したコンテンツ事業を行う会社ですが、この新しいサービスのどこに可能性を感じたのでしょう?
今では誰でもインターネットを使った情報発信ができますが、当時はメディアといえば放送と出版しかない時代です。でも、ダイヤルQ2を使えば、ユーザーに直接情報を届ける第3メディアを作ることができると思いました。僕らはそこで、企業とユーザーがつながるためのプラットフォームになる。ここに大きな可能性を感じたのです。後のポータルサイトやSNSに近い発想のビジネスモデルです。
出版社やレコード会社、映画会社など、多くの企業が僕らのサービスに参加してくれました。売り上げは倍々ゲームで伸びていき、年商は40億円に達していたと思います。しかし、そのすぐ先に落とし穴が待っていたんですよね。
―ダイヤルQ2はアダルト番組による高額請求が社会問題化しましたが、そういったことが関係したのでしょうか?
いや、僕らはアダルトコンテンツを一切手がけていなかったので、そこは関係ないんですよ。想定外だったのは、偽造テレホンカードによる詐欺事件が横行したことです。公衆電話で偽造テレホンカードを使い、自社の提供番組に電話をかけることでNTTから料金をだまし取る事件が爆発的に増えたことで、ダイヤルQ2は公衆電話からのアクセスを禁止することになります。
しかし、僕らは緊急情報も手がけていたこともあって、公衆電話からのアクセスが売り上げの4割ほどを占めていました。それだけの売り上げが一気になくなったんです。多額のインフラ投資をしていたこともあり、あっとう間に資金繰りが火の車となって経営破綻に至りました。その結果、僕は28歳で十数億円の借金を背負うことになりました。
地獄の日々の中でも次のビジネスの芽を見つける
―会社の設立時に実家の土地と建物を担保にしていたことから、自己破産もできなかったそうですね。
だから、とにかく返すしかない。もう修羅場ですよ。今どきの上場企業の社長で、僕のような経験をした人はいないでしょうね(笑)。拉致、監禁、拷問とひと通り経験しております(笑)。
―まさに壮絶な体験ですが、それでも起業意欲を失わなかったのは?
まともに働いても返せるわけがないし、こんな借金があるやつを雇う会社もない。自分で事業をやるしかないわけですよ。だから会社を作って、ちょっとうまくいったら売却して……というのを繰り返しました。債務減額の交渉も必死でやりましたね。常にポケットに自己破産の申請書を入れて、「ダメだったらこの足で自己破産してきます!」と。それでも返済までに8年かかりました。
そんな地獄の生活をしていたときに、インターネットと出会うんです。僕がダイヤルQ2でやろうとしていたことが、もっと大きな規模で実現できるものがやって来たわけですよ。絶対にこれをやるべきだと直感しました。
―それから真田さんはインターネットの技術を学ぶため、1997年にブラウザ開発ベンチャーだった株式会社ACCESSに入社されます。人生初のサラリーマン生活ですね。
ビジネスプランは100以上考えましたが、どうしても技術的な細かい部分がわからない。次は絶対に失敗できないですから、現場でちゃんと勉強しようと思ったのです。とにかく猛勉強しましたよ。
―しかし、わずか1年で退社されます。
そのときACCESSがiモードの開発に参加することになったのです。僕も担当営業として関わりながら、このサービスは絶対にブームになると確信しました。「次の挑戦をするならここだな」と思い、友人の堀主知ロバートと一緒に携帯電話向けのコンテンツ配信企業を立ち上げることにしたんです。それが株式会社サイバードです。
だから、とにかく返すしかない。もう修羅場ですよ。今どきの上場企業の社長で、僕のような経験をした人はいないでしょうね(笑)。拉致、監禁、拷問とひと通り経験しております(笑)。
―まさに壮絶な体験ですが、それでも起業意欲を失わなかったのは?
まともに働いても返せるわけがないし、こんな借金があるやつを雇う会社もない。自分で事業をやるしかないわけですよ。だから会社を作って、ちょっとうまくいったら売却して……というのを繰り返しました。債務減額の交渉も必死でやりましたね。常にポケットに自己破産の申請書を入れて、「ダメだったらこの足で自己破産してきます!」と。それでも返済までに8年かかりました。
そんな地獄の生活をしていたときに、インターネットと出会うんです。僕がダイヤルQ2でやろうとしていたことが、もっと大きな規模で実現できるものがやって来たわけですよ。絶対にこれをやるべきだと直感しました。
―それから真田さんはインターネットの技術を学ぶため、1997年にブラウザ開発ベンチャーだった株式会社ACCESSに入社されます。人生初のサラリーマン生活ですね。
ビジネスプランは100以上考えましたが、どうしても技術的な細かい部分がわからない。次は絶対に失敗できないですから、現場でちゃんと勉強しようと思ったのです。とにかく猛勉強しましたよ。
―しかし、わずか1年で退社されます。
そのときACCESSがiモードの開発に参加することになったのです。僕も担当営業として関わりながら、このサービスは絶対にブームになると確信しました。「次の挑戦をするならここだな」と思い、友人の堀主知ロバートと一緒に携帯電話向けのコンテンツ配信企業を立ち上げることにしたんです。それが株式会社サイバードです。
時代の先を読み、成功体験に引きずられない
―真田さんは副社長として会社を支えた後、2000年にはサイバードのR&D子会社としてケイ・ラボラトリー(現在のKLab)を設立され、2011年には東証マザーズ上場、その翌年には東証一部上場も果たします。一方で、iモードのバブルに乗って上場した企業はたくさんあったものの、今でも第一線で活躍している企業は決して多くはありません。なぜ、KLabは生き残ることができたと考えていますか?
早めの事業転換ですね。携帯電話でソフトウェアがダウンロードできるようになったら、それがコンピューターの次の主流になると僕は考えていました。KLabは、その構想に基づいて設立したから、2007年にiPhoneが登場したとき、スマートフォン向けのビジネスに移行すべきだとすぐに感じました。
しかし、iモードでうまくいっていた企業ほど、こういう転換は難しかったと思います。iモードはサブスクリプションモデル(月額定額制課金)でしたから、一回登録してもらえば、ブームが去ったあとでも、売り上げがすぐに落ちるわけではなかったんですよ。反対に当時のスマートフォンは、アプリの買い切りダウンロードが基本でした。それだと一生懸命にアプリを作っても、売り上げは1本数百円で終わり。iPhoneが登場したあとも、数年はiモード向けビジネスのほうが儲かるという期間が続いていたのです。
その結果、スマートフォンへの事業転換が遅れたところが多かったんですね。僕は「そろそろ業界の主役がガラッと変わるに違いない」と思い、次のビジネスの芽がないか注視していました。そうしたらアメリカのZynga(ジンガ)という会社が世界のゲーム市場で売り上げを伸ばしていき、ソーシャルゲームというジャンルをモバイル分野で確立しました。そのタイミングで2009年9月、mixiがサードパーティからのゲームコンテンツ募集を開始すると発表したんです。ここで真っ先にソーシャルゲームに参入したことで、KLabは一気に成長することができました。
―それだけ大胆な事業転換ができたのは、真田さん自身がACCESS時代にしっかりと技術を学んだことも影響している?
最新のトレンドはわからないですけど、基本の部分はわかりますから、それで「絶対にこうなるはずだ」と確信できたところはありますね。
早めの事業転換ですね。携帯電話でソフトウェアがダウンロードできるようになったら、それがコンピューターの次の主流になると僕は考えていました。KLabは、その構想に基づいて設立したから、2007年にiPhoneが登場したとき、スマートフォン向けのビジネスに移行すべきだとすぐに感じました。
しかし、iモードでうまくいっていた企業ほど、こういう転換は難しかったと思います。iモードはサブスクリプションモデル(月額定額制課金)でしたから、一回登録してもらえば、ブームが去ったあとでも、売り上げがすぐに落ちるわけではなかったんですよ。反対に当時のスマートフォンは、アプリの買い切りダウンロードが基本でした。それだと一生懸命にアプリを作っても、売り上げは1本数百円で終わり。iPhoneが登場したあとも、数年はiモード向けビジネスのほうが儲かるという期間が続いていたのです。
その結果、スマートフォンへの事業転換が遅れたところが多かったんですね。僕は「そろそろ業界の主役がガラッと変わるに違いない」と思い、次のビジネスの芽がないか注視していました。そうしたらアメリカのZynga(ジンガ)という会社が世界のゲーム市場で売り上げを伸ばしていき、ソーシャルゲームというジャンルをモバイル分野で確立しました。そのタイミングで2009年9月、mixiがサードパーティからのゲームコンテンツ募集を開始すると発表したんです。ここで真っ先にソーシャルゲームに参入したことで、KLabは一気に成長することができました。
―それだけ大胆な事業転換ができたのは、真田さん自身がACCESS時代にしっかりと技術を学んだことも影響している?
最新のトレンドはわからないですけど、基本の部分はわかりますから、それで「絶対にこうなるはずだ」と確信できたところはありますね。
―これはIT系だけではなく、ものづくり企業全般に言えることかもしれませんが、やはり企業のトップは技術を理解していたほうがいいのでしょうか?
よく経営に関しては、「企業のトップがすべてをわかっている必要はなく、わかる人を使えばいい」と言われます。まさにその通りではあるんですけど、現場のエンジニアと会話ができる最低限の知識と興味は持っているべきだと思います。そうでないと、彼らをリスペクトする気持ちも湧いてこないじゃないですか。エンジニアは道具じゃないですから、そういう気持ちがないと会社はうまくいかないですよ。
僕がスタートアップの人に常に言っているのは、最初は自分でものづくりを経験するべきだということです。いずれ会社が大きくなったら、自分は作る人を使う側になるわけです。そこでベースの経験と知識がないと、大事な経営判断ができないですよね。そこは重要なことだと思っています。
―かつての真田さんのような若手起業家にアドバイスする機会も増えていますか。
しょっちゅうやっています。今は僕の時代とは違って、スタートアップ界隈には優秀な人が本当に増えました。投資したいという人の数も比べものになりません。しかし、それでもアメリカどころか中国にも起業家の割合で負けています。これは教育から変えないといけないのではないかと思い、大学の講師や学生向けのセミナーなどで起業について教えるということをやってきました。
そうしたら数年前に、「小学生向けに起業をテーマにした授業をやってほしい」という意外な依頼をもらいました。これはびっくりしましたね。小学生に講義をしても興味を持ってもらうのは難しいと思い、ワークショップ形式の授業をしました。どんなビジネスがやってみたいかグループごとに聞いて、それをビジネスアイデアとしてまとめて発表してもらうという内容にしたんです。
それがとても楽しかったみたいで、生徒たちから「将来起業したいです」というお手紙をたくさんいただきました。振り返ってみると、僕が起業家になったのは、子どもの頃から真田幸村や坂本龍馬といった人に憧れたことが影響しています。この授業を通じて、子どもたちに起業マインドを教えることが起業家を増やすためには大切なんだと感じましたね。
よく経営に関しては、「企業のトップがすべてをわかっている必要はなく、わかる人を使えばいい」と言われます。まさにその通りではあるんですけど、現場のエンジニアと会話ができる最低限の知識と興味は持っているべきだと思います。そうでないと、彼らをリスペクトする気持ちも湧いてこないじゃないですか。エンジニアは道具じゃないですから、そういう気持ちがないと会社はうまくいかないですよ。
僕がスタートアップの人に常に言っているのは、最初は自分でものづくりを経験するべきだということです。いずれ会社が大きくなったら、自分は作る人を使う側になるわけです。そこでベースの経験と知識がないと、大事な経営判断ができないですよね。そこは重要なことだと思っています。
―かつての真田さんのような若手起業家にアドバイスする機会も増えていますか。
しょっちゅうやっています。今は僕の時代とは違って、スタートアップ界隈には優秀な人が本当に増えました。投資したいという人の数も比べものになりません。しかし、それでもアメリカどころか中国にも起業家の割合で負けています。これは教育から変えないといけないのではないかと思い、大学の講師や学生向けのセミナーなどで起業について教えるということをやってきました。
そうしたら数年前に、「小学生向けに起業をテーマにした授業をやってほしい」という意外な依頼をもらいました。これはびっくりしましたね。小学生に講義をしても興味を持ってもらうのは難しいと思い、ワークショップ形式の授業をしました。どんなビジネスがやってみたいかグループごとに聞いて、それをビジネスアイデアとしてまとめて発表してもらうという内容にしたんです。
それがとても楽しかったみたいで、生徒たちから「将来起業したいです」というお手紙をたくさんいただきました。振り返ってみると、僕が起業家になったのは、子どもの頃から真田幸村や坂本龍馬といった人に憧れたことが影響しています。この授業を通じて、子どもたちに起業マインドを教えることが起業家を増やすためには大切なんだと感じましたね。
Leaders Item
小学生向けに「起業」についてのワークショップを行ったところ、後日生徒たちから「大人になったら起業して、自分でビジネスをやってみたいです」という手紙が数多く届いた。大切な思い出の品として、この手紙は今も大事に保管している。
掲載日:2018年11月16日
BUSINESS
事業内容
◎ゲーム事業
◎パブリッシング事業
◎インキュベーション事業
◎その他事業
COMPANY
会社情報
設立:2000年8月1日
代表者:取締役会長 / 真田 哲弥
代表取締役社長CEO / 森田英克
代表取締役副会長 / 五十嵐洋介
所在地:東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー
従業員数:正社員569名(2019年6月末現在)