質量分析インフォマティクスで代謝研究を加速する
理化学研究所の津川先生に聞いたSCIEXの質量分析計の実力
理化学研究所・環境資源科学研究センターの津川裕司先生を筆頭とする国際共同研究グループは、生物の代謝によって作り出される低分子代謝物(メタボローム)を情報科学の力を用いて包括的かつ高速に分析する「質量分析インフォマティクス」の研究に取り組んでいる。その研究にはSCIEXの質量分析計も活用され、世界をリードする研究の一助となっている。ここでは津川先生に、現在進めるメタボローム研究や質量分析インフォマティクスの取り組み、そしてSCIEX機器の優位性などについてお話を伺った。
ここ10年で飛躍的に研究が進む新領域
ーーまずは津川先生が在籍されている理化学研究所の環境資源科学研究センターの概要と、先生の研究テーマについてお聞かせください。
私たち理研の環境資源科学研究センターでは、生物資源や化学資源において専門分野の垣根を越えた持続可能な社会の実現における基礎研究の開発を行っています。私はこの環境資源科学研究センターと隣接する生命医科学研究センターの両方に籍を置きながら、人・動物と植物に関する質量分析のデータサイエンスを研究しています。具体的には質量分析のデータの中からできるだけ多くのメタボロームを抽出し、それらを同定して生物の情報につなげることが主な研究テーマです。
ーー津川先生がメタボローム研究に携わるきっかけは何だったのでしょうか。
私は小学校から高校までずっとバスケットボールをやってきて、大学でも4年間バスケットを続けたいと思っていました。でも、私が進んだ大阪大学では4年生でラボに配属される際に「部活なんてやめて研究に没頭しなさい」と言われるのが通例でして…。その中で、私が師事した福崎英一郎先生だけは最後まで部活を続けていいと言って下さったんです。正直なところ、当時は質量分析にまったく興味はなかったですし、メタボロームという言葉自体を知りませんでした。むしろバスケットを中心に動いていたので、頭の中はどうやって研究を楽にしようかということでいっぱいでしたね。そこで、その頃は2週間から1ヶ月かかっていたデータ解析をもっと短い時間でできれば、部活に集中できるんじゃないかと思ったんです。それで独学でプログラミングを覚えたのが質量分析インフォマティクス研究の第一歩だったのかもしれません。今振り返れば、そんな風によこしまな入り口でしたが、そうした時間短縮の追求があったからこそ今のキャリアがあるといえるかもしれません。
ーーメタボローム研究というのは、どのくらいの歴史がある研究分野なのでしょうか。
メタボローム研究で最も大きな国際メタボロミクス学会が今年で16回目ですので、まだ学問としては比較的若い分野です。最初に大きくフューチャーされたのは2000年あたりのことですね。カリフォルニア大学デイビス校(当時Max Planck Institute)のオリバー・フィーン博士が表現型を呈さない遺伝子欠損植物においてメタボロームの視点でみると大きな差異が存在するという論文を国際学術誌に発表して大きな注目を集めました。
ーー津川先生から見て今のメタボローム研究はどんな段階にあると言えますか。
私が学生だった10年ほど前は生物学者の間でもとてもマニアックな領域だと思われていましたが、ここ数年の間に生物学の中で普通に使われるようになってきました。メタボローム研究は分析と解析が伴って成り立つ分野なのですが、2010年代に入って分析手法の技術が格段に進歩し、解析技術も着実に研究が進んできたことがその背景にあります。特に日本は慶應義塾大学・理化学研究所・大阪大学 などを中心に メタボローム研究において世界をリードしている立場にあり、先ほど述べた国際会議も第1回と第10回という節目の年には日本国内で開催されています。
ーーメタボローム研究が進歩すると、私たちはどんな恩恵を得ることができるのでしょうか。
基本的に私たちが対象としているのは糖尿病やメタボリックシンドロームといった代謝性疾患の領域です。遺伝子の変異で説明できない生命現象が多々ある中で、それが何で起こっているのかを代謝という視点から解き明かすのがメタボローム研究の最も大きな目的といえます。さらにメタボローム研究と並ぶオーム科学の代表領域に、タンパク質の包括的解析を行うプロテオーム解析があります。これら代謝物とタンパク質を解析する技術開発が併せて進むことによって、遺伝子解析だけでは解らなかった生命現象を明確なエビデンスを持って証明できるようになり、新たな治療戦略の切り口を見出せるようになると期待されています。また、植物が作る代謝物が我々の薬のもとになる可能性は無限大にありますから、新たな創薬シードとなりうる代謝物を同定するための方法論を開発するのも我々がメタボローム研究を行う意義です。
ーー自然界にはどのくらいの種類のメタボロームが存在するのでしょうか。
例えば、代謝経路の出発物質であるグルコースから、人間はおよそ3000種類の代謝物を作ることができるといわれています。食品では1万5千種類、生薬などの天然物では25万種類の低分子化合物が報告されていますから、人体から発せられるメタボロームの種類も無限にあると考えられます。また、近ごろの生物学の世界では人が生涯に晒される外的要因のすべてを表すエクスポソームという言葉が流行していますが、一人の人間が一生のうちに曝露される化合物の総体は100万種くらいあると言われています。曝露されるだけでは正確には代謝になりませんが、こうした広い意味での代謝物についても包括していかなければQOLの向上は望めないのではと考えています。
製品スペックだけでは分からないSCIEX機器の実力
ーー津川先生は国際共同研究グループと共同で、情報科学の力でメタボロームを包括的かつ高速に分析・解析する質量分析インフォマティクスの研究に取り組まれています。2015年にはガスクロマトグラフィー質量分析装置(GC-MS)、液体クロマトグラフィータンデム質量分析装置(LC-MS/MS)用の統合解析プログラム「MS-DIAL」を発表されました。最初の発表からこれまでに3度のバージョンアップを数えていますが、このプログラム全体の概要と各バージョンで取り組んだ課題について教えてください。
MS-DIALの目的は大きく分けて2つあります。1つは最初にお話しした通り、今まで膨大な時間がかかっていた解析作業の省略化です。もう一つは、まだまだ大量に存在する未知のイオンをアノテーションし、生命を形造るメタボロームの多様性を捉えることで複雑な生命システムの理解につなげることです。今はまだ、メタボロームを抽出して分析をかけても、このイオンは一体何なのかという未知の領域が当たり前のようにあります。すべての代謝物イオンの構造を決定するのは難しいのですが、マススペクトルという化合物固有の物理化学情報を紐解きながら、こういう構造があるかもしれないという提案を行うプログラムを提供し、今までデータの中から1%しか化学構造が決定できなかったものが、10%、20%と増えていき、バイオロジーが新たな視点から展開されることが目標です。
その上で最初のMS-DIALでは脂質の質量分析 を、2代目のMS-DIAL2ではTCAサイクルを含む中央代謝経路からタンパクの異常によって新たに出てきたエラー代謝物の構造同定に取り組み、3代目のMS-DIAL3では植物が持つもっと複雑な天然物化合物構造を捉えるためのプログラムを発表しました。今ではアメリカでも第一線の生物学研究所であるコールド・スプリング・ハーバー研究所が実施するメタボロミクストレーニングコースにおいて解析ツールとして紹介されているほか、欧米やアジアの著名な大学・研究機関でもこのプログラムが実際に使用され、各国において自発的にMS-DIALの講義やトレーニングを行っておりかなりの広がりを見せているようです。社会貢献としてはまだこれからですが、学術界では一定の貢献が果たせていると思います。
ーー津川先生はご研究の中でSCIEXの「TripleTOF® 」シリーズや「QTRAP® 」シリーズを使われています。MS-DIALの開発等においてSCIEXの質量分析計はどんな役割を担っていますか。
SCIEXの機器は日頃からよく使っており、とりわけMS-DIALの出発点である最初のバージョンの開発には、SCIEX独自の複数のイオンを網羅的な定量分析できる「SWATHテクノロジー」の存在が欠かせませんでした。また、SCIEXの機器の優秀さを感じたのは、MS-DIALの研究において、ほぼ全装置メーカーの装置で同じサンプルを分析してもらった時のことです。装置の比較ではなく、あくまでどの装置でもMS-DIALを使えば同じ結果が得られることを証明することが目的だったのですが、(抽出方法も異なるので一概には言えないのですが)SCIEXの機器で取ったものが最も多いアノテーション数を叩き出し、実力の高さを改めて感じさせられましたね。
そしてSCIEXは伝統的にハード面に高い定評のあるメーカーですが、ソフトウェアもアルゴリズムがかなり工夫されているなと感じることがよくあります。例えば、一定範囲に含まれるイオンを分析できるIDA(Information Dependent Acquisition)という機能を使う時には、MS/MSのカバレッジを上げるため一度叩いた化合物を再び叩かないような設定をするのですが、他社の同様の機能よりも、IDAは優秀な精度を発揮してくれ、アノテーションに必須であるMS/MS情報の網羅性が非常に高いと感じます。このあたりは製品スペックからは伝わらない点だと思います。
ーーMS-DIALの今後の方向性と津川先生のこれからの目標 について教えてください。
今、SCIEXの機器を中心に研究を進めている「MS-DIAL4」は、再び脂質を対象としたプログラムになります。その中でも今は、腸内細菌叢特異的な脂質も含む、各臓器・細胞固有の脂質構造解析に特に力を入れて取り組んでいます。低分子のマスフラグメンテーションをコンピュータで全部理解できるようになることが今の研究のゴールだと思っています。質量分析が活用されている分野は広く、メタボロームだけに留まらず、プロテオーム、核酸、スモールRNAなど、ライフサイエンスに関わる様々な分野に及びます。データサイエンティストとして、解析作業の省略化や解析の質を上げることにより、将来的にはそういったすべてのオミクス階層を扱う幅広い分野の研究者の方々が生命現象の謎を解き明かすために「無くてはならないツール」としてプログラムを提供できればと思っています。
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